新田次郎の「劒岳」を舞台にした作品が映画化

皇太子徳仁親王のご趣味といえば『登山』です。皇太子徳仁親王がお若い時から、登山されている様子などがテレビなどを通じて目にしたことがあります。敬宮愛子様がまだ幼少の時に、背負子(しょいこ)に愛子様を背負われて山を散策されていた画像なども記憶に新しいほどなので、皇太子徳仁親王はかなりの登山好きです。そんな登山好きな皇太子様が愛読されているのが「新田次郎」の本えす。

新田次郎といえば、高倉健主演の大作映画『八甲田山』の原作「八甲田山死の彷徨」でも知られています。そんな浅田次郎の原作「劒岳 点の記」が映画になりました。この作品を監督したのは日本を代表する名キャメラマンの木村大作です。木村大作は数々の名作品でキャメラマンとして活躍していますが、この「劒岳 点の記」で初めての監督作品となりました。木村大作監督はこの作品で監督をした理由について「自分自身が本物にこだわった映画が見たい。本物にこだわる映画で勝負したい。」という理由で、儲けることなど考えるずに大自然がドラマを作る・・という思いと信念で「劒岳 点の記」作品を撮りました。

この作品の舞台は明治時代なので、当時の測量官の目線と感覚をそのまま映し出すためにCGなしで空撮などにも頼ることなく、長期間に渡る撮影で細部に至るまで徹底的にこだわり抜いた映像です。

「劒岳 点の記」~司令部からの命令~

浅田次郎原作「劒岳 点の記」の舞台となっているのは、明治時代の末期です。明治30年代日本の公式記録には『剣岳』はまだ未踏峰で地図には標高など白状態でした。明治政府が成立してから、陸軍参謀本部の機関「陸地測量部」が発足しました。「陸地測量部」では、日本各地で未踏峰だった山々に三角点を設置して日本地図を正確に作成することを進めていました。

そして民間では皇太子徳仁親王も名誉会員として名前を連ねている「日本山岳会」が発足しました。日本山学会も未踏峰の「剣岳」の登頂を目指しています。「陸地測量部」から日本山学会の民間団体をみると、ただ遊びで山に登っているだけの団体にしか見えません。陸軍上層部の大久保少将は「陸地測量部」の現場責任者に陸軍測量部の威信にかけて、日本山岳会よりも先に剣岳の山頂に登頂して、三角点を設置せよ。という命令が下されました。

剣岳は信仰の山です。そして超能力を操ることができる弘法大師空海が、草鞋三千足または六千足を費やしても登頂することができなかったとされる、とても厳しく尖った複雑な尾根をもっている「死の山」そして「針山地獄」とされる「剣岳」。日本地図で最後の空欄地帯の「剣岳」を踏破して、山岳測量するために取り組んだ男たちと、日本三岳会との登頂争いなどを描いています。

あらすじ:プロローグ

測量法で定められている測量標のひとつ三角点。経度・緯度・標高の基準になる点です。現在日本全国にある標石は10万600箇所にわたります。そして三角点の設置は、命を賭けた男たちの手で成し遂げられたのです。

1906年(明治39年)の秋です。ひとりの男が陸軍参謀本部にやって来ました。参謀本部へやってきた男は陸地測量部測量手の柴崎芳太郎。庭先で柴崎の姿をみつけた水本輝は、柴崎に大久保徳明閣下が柴崎を呼んでいることを教えますが、すでに柴崎は知っていました。

柴崎が見知らぬ男とすれ違いながら、司令部に入ります。司令部で柴崎は三角科長の矢口誠一郎中佐より、未だ未踏の地域「剣岳」山頂を命じられました。1904年(明治37年)から大日本帝国とロシア帝国との間の戦い「日露戦争」で、大日本帝国は勝利をおさめ1905年(明治38年)9月5日にポーツマス条約で講和したものの、いまだにロシア帝国はフランスと組んで大日本帝国への挑戦を狙っています。日露戦争で勝利してはいますが、国防には万全を期さなくてはなりません。国防に万全を期すために、日本地図を完成させるということは急務でもあったため、来年「剣岳」を測量することに決定した。という柴崎には一方的な司令になりました。

柴崎は司令部を出て陸地測量部の部屋にも戻ると、水本から先ほど日本山岳会の小島烏水がこちらへ資料を求めに来たけれども、小島には1等と3等三角点しか渡せなかったと言ってきました。小島が所属している日本山岳会は、昨年の1905年(明治38年)10月に発足したようだが、日本山岳会のメンバーたちも剣山登頂を狙っているらしい。水本は日本山岳会には負けたくないから、なんとか測量部のほうが日本山岳会よりも早く2等三角点網を完成させなくては!!と力説していますが、柴崎は水本の話はもう耳に入ってきていません。

電車で自宅のある神田橋へ柴崎が帰ると、昨年結婚してばかりの新妻の葉津よが電車の停車場で柴崎をにこやかに待ち受けていました。「剣岳」の測量を命じられた翌日、柴崎は先輩の元を訪れます。柴崎の先輩は3年前に測量部から身を引いた古田盛作です。古田の元を訪れるとちょうど弓の稽古中でした。古田は柴崎に気がつくと、嬉しそうに自宅へ招きそこで「剣岳」登頂計画の話を聞くのでした。

古田は以前「剣岳」の登頂を目指したことがありますが、登頂することはできませんでした。柴崎は「剣岳」を登頂するための案内人として芦峅村(あしくらじ)に頼もうと考えいることを話すと、古田は芦峅村の住民たちは「剣岳」を「死の山」として恐れているから、おそらく芦峅村の人たちから案内の協力を得ることは難しいことをいいます。そして芦峅村の対岸に大山村という場所があって、そこに住む宇治長次郎という男に「剣岳」の案内を頼むのがいいだろうと柴崎にアドバイスを送りました。そして古田は「剣岳」に自分も登りたかった・・と羨ましそうに言いながらも、「剣岳」はとても生半可な覚悟ではとうてい登ることは難しい山だからな。とクギを刺すのも忘れませんでした。

あらすじ:柴崎は下見へ

「剣岳」登頂するための手始めに、まず下見をするために柴崎は富山駅へ到着しました。そこへ柴崎にいきなり声を掛けてきた男に驚きます。その男こそ古田が紹介してくれた宇治長次郎でした。柴崎が出発する前に先に送った荷物は、昨日到着したので駅へ取りに来て運んでおいたことを言います。

ちなみに駅から大山村までは6里(約24km)もあります。荷物を取りにいくためと今日の柴崎の出迎えのために、二日間も連続で宇治がやってきてくれたことに柴崎はとても感動します。柴崎と宇治は大山へ向かいますが、大山村へ到着した時に雨が降っていました。雨が降っていたので宇治の妻の宇治佐和が、途中まで傘を持って迎えに来てくれました。

宇治の家に到着して、ちょっと落ち着いた柴崎は宇治に「明日芦峅に、挨拶に行こうと思っている」と話すと、宇治はあらかじめ準備しておいたと思われる剣岳のスケッチを柴崎に見せるのでした。自分の書いたスケッチは落書きのようなものですが・・と謙遜する宇治ですが、ところがどうでしょう。剣岳のスケッチはとても見事なもので、柴崎はますます感心します。

翌日になり、柴崎は芦峅村の善堂坊(ぜんどうぼう)を訪れて、遍路さんを相手にこの立山修験道の解説をしていた善堂坊総代の佐伯永丸に挨拶をします。佐伯総代は剣岳登頂計画に不快感をもっています。「剣岳」はあの弘法大師でさえ草鞋三千足を履きつぶしても登ることはできなかった山です。剣岳登頂の手伝いとして、この地元から案内人などの人を出すことは断わりますが、今まで陸軍との付き合いもあるので、資材などはすべて取り揃えておくことを約束してくれました。

柴崎と宇治は、とりあえず近くの山に登りますが、そこで柴崎の故郷山形でもよく見つけていた植物の赤い実「むしかり」を見つけて喜びます。にこやかに登山をしているふたりにすれ違ったひとりの山の案内人をしている少年が、じっと宇治の方を見て睨んでいました。宇治はというと、大きな岩陰にある石仏を熱心に拝んでいたので、柴崎も宇治にならい軽く石仏に手を合わせました。

夕方にふたりが夜泊まるテントを作り終えてから、宇治お手製のこけ汁というキノコ汁を柴崎に振舞いながら、「剣岳」に登る可能性のある道は三つあるという持論を披露しました。宇治の「剣岳」登頂ルートの意見を聴きながら、柴崎は遠くに富士山が見えました。自分はいま日本海側にいながら、あの富士山の頂をみることに驚きます。

その翌日です。柴崎と宇治のふたりはそれぞれ宇治が昨日披露した「剣岳」登頂するための三つの道を下見することにしました。ふたりは劔御前から前劔を登る二つ目の道へ向かいますが、そこで念仏を唱えているひとりの行者に出会います。

「剣岳」を登頂することができる可能性のある三つの道を柴崎は見終えましたが、三つの道はどれも登るには難しそうです。ちょっと弱気な気持ちになっている柴崎に、「この山が好きだ!」と宇治は根っからの山好きであることをうちあけるのでした。それからふたりは、井口岳や三の澤などを見て回りました。

立山連峰に入ってから七日目となる10月3日。ものすごい豪雨に見舞われます。立山連峰に到着してから、ただただ美しい山として輝いた山がとても厳しい環境の中に存在していることを感じるのでした。そして豪雨の翌日、剣岳南壁にたどり着いた宇治が、草鞋を脱いで裸足のまま南壁を登って見せてくれましたが、宇治が登る様子を見ていた柴崎は、自分たちが登るときには大きな思い機材を持っての登山になるため、とてもじゃないが登坂することは難しく無理だ・・ということを知るのでした。

柴崎と宇治のふたりは、今まで目にしたことがない珍しく目新しいテントを張っている小島烏水とその仲間の岡野金次郎に出会います。日本山学会の彼たちも、剣岳登頂を目指してそのための下見に来ていたようで、3日前からこちらへ来ていると話します。

日本山学会の彼たちが、ヨーロッパ最新の登山機材を取り揃えていることに柴崎はとても驚きます。そして「剣岳に遊びで登るには、とても危険です!」と注意しますが、柴崎の忠告めいた言葉を聞いて、ふたりは気色ばんで「大丈夫です。私たちは来年剣岳にあなた達よりも先に登ってみせます。」と言いました。

柴崎と宇治が予想していたよりも、早く山に冬が到来しました。ある日のこと、吹雪に襲われたことから下見を切り上げて下山することを決めますが、宇治は前に見かけたひとりの行者様を連れて行かなくては・・・・と再び道を戻り始めました。あの時に見かけた行者は、念仏を唱えながら洞窟の中にいました。

行者の元へ行き声を掛けます。行者は声を掛けてきた柴崎たちを剣岳測量隊の人間だと知っているようです。『雪を背負って登り、雪を背負って降りよ。それが古くから行者たちの間で言い伝えられている言葉だ・・・・」と言った後に気絶しかけました。おそらく柴崎たちが来た時にはもう体力の限界に来ていたようです。柴崎は行者を背負って、吹雪の中を下山するのでした。

なんとか行者を背負い麓の宿へ柴崎と宇治のふたりは到着します。業者はふたりを呼び「なぜ助けたんだ?どんなことでも成せば成る。自信を持つことだ。」とふたりに励ましの言葉をかけてくれました。